ちんどん屋
野本 健司
−ちんどん屋―
人目につき易い特異の服装をつけ、太鼓・三味線・鉦・ラッパ・クラリネットなどを鳴らしながら、商店の開店披露・売出し広告の宣伝をする人。5人組・3人組などがある。 ( 『広辞苑』 より )
大学入学の春、誰もが新しい生活に期待を抱き、胸を高鳴らせている。かくいう私もその一人であり、新生活を思い浮かべては、そんな気持ちに浸っていた。そんな中、飛び込んできた「早稲田ちんどん研究会創立」の文字にある種の好奇心を抱き、衝撃を受けた。偶然手にした某出版サークルの記事に出ていたその言葉。私とちんどん屋の出会いはそこから始まった。
・ 若い世代のちんどん屋像
私たちの世代には、ちんどん屋というものはどういったものに映るのだろうか?実際に生でそれを見たと言う人は、同世代には少ないように思える。然し、その実体こそ知らないものの、存在を知らないものはいないと思われる。その例として、『ば〜か、あ〜ほ、ちんどん屋』のような庶民に馴染んだ言葉からも伺える。そして私だがそのような、自分にとって知っているようで知らない、記憶にあるのかないのか定かではない、「ちんどん屋」に興味を持った。
一、ちんどん屋のルーツ
二、ちんどん屋の最盛期
三、ちんどん屋の衰退、変容
四、新世代ちんどん
五、全国ちんどん博覧会
以上の項目からなる。
先程も述べた通り、現在の若い世代には、街の風景としてのちんどん屋を知る人は少ないであろう。それでも現在ちんどん屋は存在する。正確には、生き残っているという言葉が正しいかもしれない。そうすると現在残るちんどん屋とは、一体どのようなものであろうか?その発生から、日本の社会の変化と共に、どのような道を歩んで今に至るのかを追ってみたい。自分自身、「早稲田ちんどん研究会」に1年弱属し、多少なりともプロのちんどん屋の方とも、お付き合いさせてもらえる機会も得た。そんな経験も生かせたらとおもう。
一、ちんどん屋のルーツ
・ 飴勝から東西屋へ
江戸時代には飴売りという職業があった。派手な衣装で、鉦や太鼓を鳴らし、愉快な口調で人を集め、飴を売るというものだ。(この時点で、現在のちんどん屋との類似点は見られる。)1845年(弘化2年)、今から150年以上も前のこと、1人の飴売りがその得意の口調で、他人の商売の街頭宣伝を請け負うという、新しい仕事を始めた。江戸出身の飴勝という人物であった。口上と拍子木を使った、身振り、口真似という、単純のもであったが好評を博した。以後、彼はこの芸に専念する。これがちんどん屋を探る上でのルーツの源流だと言われている。
その後、1880年(明治15年)になると、飴勝の後継者である勇亀が、芝居好きだったこともあり、宣伝に「東西、と〜ざい」という芝居の口上を取り入れる。そのことから、以来関西では、「東西屋」という名が広まる。その後、三味線などの和楽器中心の編成や、様々な奇抜なアイデアを生んだ丹波屋九里丸によって、その名は高まり、広く知られるようになった。
・ 市中音楽隊
文明開化の時代のこと、東京ではある商店主が1つの考えを思いつく。当時、文明開化の波により、西洋の音楽が普及されていた。一方、軍楽隊(軍の所持していたブラスバンド。西洋音楽を演奏する団体は他になかった。)の退役者でトランペットやクラリネットを吹けるものが、その腕を持て余している。その2つを上手く結び付け音楽隊を作れば、商売になるかもしれないと。そして、その商店主は、隊員希望者を集めて、数名の専門家に指導させた。こうして生まれたのが、小編成のブラスバンド「市中音楽隊」である。「楽隊」、「ジンタ」とも言われた。園遊会、運動会、その他の催事での宣伝を主な仕事とする、宣伝屋であったのだが、
当の本人たちは、どちらかというと音楽家的志向が強かったようだ。「ジンタ」は時に、前述の「東西屋」と結びつき活動した。そして、後述の「広目屋」を形成する上での、重要な鍵となった。
・ 広目屋と秋田柳吉
先程述べた通り、「ジンタ」は商売人というよりは、音楽家としての意識が強かった。その「ジンタ」に目をつけた人物がいる。そして、その男は、後にそれを本格的な宣伝業者にまで高めた。秋田柳吉である。柳吉は「ジンタ」が客に喜ばれるもの、分かり易いものであるように徹した。それが巧を奏し、関東では「広目屋」と呼ばれ、広く知られるようになる。その仕事は、客に広く知られるよう宣伝をすることであり、「広目」という言葉もそこからきている。時に、「披露目」(開店披露の披露目が由来)と書かれもする。広目屋の「わかりやすさ」や、客を喜ばせようという心は、現在のちんどん屋にも受け継がれている。ちんどん屋は街を歩きながら、客層をみて、その場所に最も適した曲を奏でる。子供ばかりならば、
流行りのアニメソングでも、童謡でもやるのだ。ちんどん屋の音楽とは、客あっての受身の音楽なのである。
以上、ちんどん屋の歴史を探る上で、重要な江戸時代の「飴屋飴勝」、明治時代、西の「東西屋」、東の「広目屋」、「市中音楽隊」について触れたが、直接の先祖がどれあるか、どこで線引きするのかと言い切るのは、難しい。特に明治期には、「市中音楽隊」は「広目屋」に形を変える中、一方では、「東西屋」に出入りす者もおる等して、その関係は複雑である。
二、ちんどん屋の最盛期
明治から昭和へ時代は変わる。そのなか、サイレント映画というものが普及されるようになった。上映される館内には、もちろん何の音もなく、その結果、BGM的なものが求められるようになった。その結果、スクリーンの横で、生伴奏する楽士が多く雇用された。そこに、ちんどん屋(当時は、まだその呼称は広まってはないが、総称して。昭和に入り、その呼び名は定着したという説が、有力らしい。)に出入りをしていた「市中音楽隊」の楽士が目をつけた。ちんどん屋の、街を回り宣伝をするという仕事は、想像以上に過酷だったのだ。そこから逃れるように、映画館の楽士席を仕事場として求めるものが急増した。
ちんどん屋としては、映画の普及によって、楽士が失なわれ、少なからず打撃を与えられる形になった。しかし、同じ映画の普及という出来事が、今度はちんどん屋に幸運をもたらし、それが次の時代、ちんどん屋の隆盛につながるのである。
・ ちんどん屋の隆盛
またしても映画の普及が、ちんどん屋に影響を与える。先述のとおり今度は好影響を。それが、ちんどん屋の大きな転換のきっかけになる。トーキーの普及である。従来の音のないサイレント映画は、この発声映画にとって変わられたのである。伴奏音楽は不必要とされ、当然それを演奏する楽士たちは職を失った。昭和初期のことであった。そして、その失業楽士がかつて出入りしていたちんどん屋と、再び結びついたり、開業し自らちんどん屋になるものもいた。昭和7‐9年トーキーが全国的に各地の映画館に普及されるようになると、失業楽士に加え、映画に圧倒された田舎まわりの芝居役者や、寄席芸人などもちんどん屋に加わった。それが後押しにもなり、ちんどん屋は全国に増えていく。
更に、8年頃からは、日本は軍需工業を中心に好況に転じる。そうすると、各地の商店街は、宣伝広告に力を入れるようになり、ちんどん屋の需要自体も増えていった。その頃から、14年頃まで人手も仕事も増え、ちんどん屋の全盛時代は続く。15年以後、太平洋戦争中とその敗戦後の混乱期にはなりを潜めるが、26年頃、物資が豊富になり、街が復興してくると、ぽつぽつと姿を現すようになる。その後の数年間は、ちんどん屋に住みやすい時代は続いた。
三、ちんどん屋の衰退と変容
どんなもの栄えれば、衰えがくる。それは、ちんどん屋でも例外ではなかった。戦後の日本が復興を終え、成長を遂げるのとは対照的に、ちんどん屋は衰退に追い込まれるのであった。その日本社会によって。
・ちんどん屋のいた街
そもそもこれまで触れてきたちんどん屋の魅力とはなんであろう。ちんどん屋の仕事とは、楽器を鳴らしながら、自らの足で練り歩き、「街」で宣伝活動を行うことである。客を集めるための庶民性あふれるその音と、自らの足を使ったその機動力こそが、最大の魅力でもあり、武器でもあったのだ。ちんどん屋が街に溢れていた頃は、その長所を活かせる場所があったのだ。ちんどん屋の居場所が。しかし、その「街」というものが日本の社会の発達と共に形を変えるのである。
「昭和7年頃の日本では、マイクロホンとかスピーカーとかの 音声を拡大する機械は、特殊な業種でないかぎり使わなかった。
− 中略 −
それゆえ、チンドン屋のはやし立てる音は、離れたところでもよく聞こえた。」(加太こうじ著『下町の民俗学』PHP出版 1980年)より引用
街に騒音が少なかった時代。思い浮かべるのは、テレビや映画で見た、日本の原風景のようなものであろうか。各々の生活から生まれる音。家の中から聞こえる、家族団欒の会話、時に喧嘩する声、母親が食事の準備でもしているのか、とんとんというまな板の音etc。そんな必要最低限の音が街に溢れていた時代。
そんな時代にこそ、ちんどん屋は効果的であった。しかし、街のあちこちにスピーカーによる宣伝広告の音が聞こえるようになる。数々の店がスピーカーを多用し、街に騒音が溢れるようになる。生の楽器を使うちんどん屋は、音を拡大することは出来ない。非常事態であった。ちんどん屋はその音を奪われる。
街に騒音が少なかった時代。もちろん現在あるような自動車の騒音も無かった。自動車というものが、普及され街に増えだした。自動車の登場は、音響の問題以上にちんどん屋に影響を与える。交通網が発達し、大きな道路ができる。自動車が行き交う通りでの、街回りは危険を伴い、困難である。とても宣伝どころではない。自動車は徐々に横丁にまでも入ってくるようになる。こうしてちんどん屋は機動力までも奪われる。
スピーカーの利用者の増加と、自動車の氾濫は昭和30年頃から、ちんどん屋を圧倒しだした。元々失業者の手を借り増えたちんどん屋。人材も少なく、その悪状況の中、減少の一路を辿った。テレビやラジオの登場が、更に、状況に拍車をかけるのはいうまでも無いだろう。
・芸と術
ちんどん屋というものは、伝統芸能にはなりえなかった。自ら音を奏で、時に舞い踊りながら、時に芝居の口上を使うなど、他のそれと共通する部分を持つのになぜだろうか。あくまでちんどん屋は宣伝業者なのである。持っているものは宣伝するための商売道具でしかなかったのだ。商売と切り離して、存在する芸というものはなかった。ちんどんとは、人を魅了する「芸」ではなく、生きるための「術」でしかなかったのだ。それゆえに、仕事が無くなれば、存在することは出来なくなってしまう。伝統芸能のように保護されることはないのだ。ただの商売であるから。
・ちんどん屋の変容
仕事が減ってしまったのなら、それだけで金になるような、人を魅了する芸を身に付けなければならない。早くから、そこに活路を見出すものもいたが、業界全体としては微々たるものであった。
「 − 前略 − 伝統芸能のなかった富山市に四季それぞれの観光行事をつくりだそうと、智恵がしぼられた。 − 中略 −チンドン屋の大会をやれば面白いのではないかと発案された。」 (網島徹『ちんどん屋写真集』国書刊行会 1992)
昭和30年、富山市の町興しの一環である『桜祭り』の一大イベントとして「全日本チンドンコンクール」は始まった。このことがちんどん屋業界に、大きな動きをもたらす。東西から集まったちんどん屋に日本一を競わせるこの大会。まさに桧舞台。ちんどん屋にとっては、ステージ上で己をアピールする絶好のチャンスである。ちんどん屋が己の腕を磨くモチベーションとなったのだ。年々、参加するちんどん屋も増え、技術も高度になってくる。芸能といえる段階にまで、それが達したとき、周囲の認識は変わった。ちんどん屋は「芸」として、認知され始めたのだ。そのことは、意外な利点も生んだ。その芸に、魅了されて、ちんどん屋を志願する若者も現れたのだ。このことは、業界の活性化にもつながり、その仕事においても、工夫を凝らすようにもなった。こうして、ちんどん屋は、「術」、「芸」をも兼備えた存在に形を変えていった。
四、新世代ちんどん
芸として、認められたちんどん屋は、若い世代を魅了するのにも十分なものであった。着々と、新しい世代のちんどん屋が生まれる。そのなかには、音源の発売を行うなど、積極的に活動するものもおり、その力はゆっくりと増していく。加えて、ミュ-ジシャンなかにもちんどん屋の音を取り入れるものも現れる。音楽という方面からも、注目は高まり、知られるようにもなる。
五、全国ちんどん博覧会
芸能としての認知も高まり、若いちんどん屋たちも増え、活性化してきたちんどん屋業界であったが、その内部での盛り上がりとは、正反対に外部の環境は、悪化するばかりであった。街は雑音にあふれ、交通事情はさらに複雑になった。テレビやラジオなどの、宣伝媒体は大きく発達し、多様化し、その仕事は奪われていく。おまけに、そのメディアには、その希少価値を見出されて取りあげられる始末。ちんどん屋という職業の発展というものは、まだまだ望めない状況である。2000年・夏、そんな状況を打破するべく、あるイベントが行われた。着々と力を蓄え、現在では中堅とまで呼ばれるようになった若手ちんどんマンたちの手によってである。
2000年・8月19日 炎天下のなか、上野水上音楽堂にて、「全国ちんどん博覧会」は行われた。このイベントは、ちんどん屋自身が企画の段階から、運営、出演をもこなした、業界では、初の試みである。狙いは、もちろんちんどん屋の発展である。わたしもスタッフとして参加させて頂いたのだが、正直、人が集まるという確信は持てなかった。この暑さの中で、ちんどん屋を見にくる人は、いるのだろうか。しかし、予想は外れた。開場と同時に、人は溢れかえり、みるみる内に席は埋まっていった。はるばる遠くからきた人、偶々、立ち寄った人、年配の方が多かったが、なかには若者もちらほら見られた。いったん、席についたら、離れる人はほとんどおらず、時に笑顔を浮かべステージに見入る姿が印象的だった。昔、ちんどん屋のいた街には、そんな笑顔がたくさんあったのだろう。そして、それほどに、ステージ上の、ちんどん屋の芸はすばらしかったのであろう。
実行委員長を務めた、高田洋介さんの開会宣言からの抜粋である。
今年で46回目を迎えました、富山県、富山市主催「全日本ちんどんコンクール」の交流の中より生まれたこの催しは、チンドン屋の世界あらゆる角度から見て、聞いて、体験してと皆様に楽しんでいただけるように「博覧会」的にちりばめました。ずば抜けた機動力をほこるチンドン屋のイベントらしく、舞台上のみならず、縦横無尽な展開で、会場内ところ狭しと活躍する、我々の醍醐味をお楽しみ下さい。人々が行き交う街並みがある限り、チンドン太鼓の音が響き、笑顔と笑顔を誘うチンドン屋のスリルとリアリティはなくなりません。懐かしさやノスタルジーの超えた、21世紀に向かうチンドン屋の「今」を「全国チンドン博覧会」の中に込めたいと思います。ちんどん屋は、存亡の危機を迎えた時、「芸」を身に付けることで、その身を生かした。「芸能人」としては、認知もされ始めてきたが、まだまだ「職業人」、宣伝屋としての認知は低い。この宣言は、本来あるべき宣伝屋としてちんどん屋を、真っ当しようというちんどん屋の声であるように思える。
日本と共に変化を遂げたちんどん屋。次はあるべき、宣伝屋としての姿を取り戻すのだろうか。ちんどん屋は、滅び行く過去の産物ではなく、これからも形を変え、発展しゆくものなのであろう。
参考文献
『芸能の始源に向かって』 朝倉喬司(ミュージックマガジン社)1986
『音の力』−「路上の世界音楽 民間音楽としての楽隊 ジンタチンドンヤ」(インパクト出版)1996
『下町の民俗学』加太こうじ(PHP出版)1980
『ちんどん菊野家の人々』大山真人(河出書房新社)1995
『ちんどん屋---網島 徹 写真集---』同著(国書刊行会) 1992